「南米文化の伝道師として」近藤 翔太

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10
04月
2014

選手時代の近藤 翔太さん
写真:選手時代の近藤 翔太さん)

「自分の経験を活かして南米と日本の架け橋になりたいんです」話してくれたのは、立命館アジア太平洋大学に通いながらスペイン語の個人レッスン教室『NARANJA』の代表を務める近藤翔太。近藤は、ウルグアイで1年間プロ選手として過ごし、チリでのプレーも経験している。「日本の南米化ではなく、日本の文化を大切にしながら南米の良いエッセンスを取り入れること」近藤が考える、大分県別府市から発信する南米との架け橋としての活動とは。

-はじめに海外に興味を持ったキッカケを教えて下さい。
近藤 翔太(以下、近藤):中学時代からプレミアリーグに魅了されていました。本当は高校に進学せずに、イングランドに行く予定だったんです。ただ両親の反対や、現地の留学業者に騙されそうになったこともあり、断念しました。その後、大学に通いながらHOYO大分でプレーしていた時、元鹿島アントラーズの増田忠俊選手に海外の話しを聞くうちに、自分の海外に対する羨望を抑えきれなくなっていました。1度考え始めると、そのことで頭がいっぱいになる性格なので。ブラジル人のコーチに海外へ行きたい気持ちを相談し、HOYOのチームメイトにウルグアイでシュアルームが可能な人を紹介してもらいました。当時ウルグアイに関して知っている情報は皆無。本当に何もない状態から、ウルグアイでの生活がスタートしました。

 

-ウルグアイ、チリでプレーしていますが両国の印象は?
近藤:ウルグアイでの1年目はアマチュアだったんですが、2年目にプロ契約を果たすことができました。しかし、公式戦出場は0。ポジションもフォワードからサイドバックにコンバートされて、消化不良の日々でした。
サッカーの印象はフィジカル重視で、プレーがとにかく荒かったです。『チャージが、体全身で当たってくる感じ』でした。

チリではゴールという結果を残せたんですが、ビザの問題や2012年は外国籍(南米圏外)の選手はチリでプレーが不可能となったこともあり、プロ契約を果たせませんでした。
プレーする側としては、ウルグアイのほうが激しく厳しい環境でした。ただチリのほうが、パスサッカーが主軸のスタイルを好み、欧州の基準に合わせているという印象は受けました。

 

-なぜ大学在学中に「NARANJA」を立ち上げようと考えたのですか?
近藤:チリでプロになれなくて傷心していた際、2ヶ月間バックパッカーとしてチリ全土を周りました。今までサッカーしかしてこなかった自分にとって、この経験は考え方を180度変えるキッカケになりました。旅行者として、右も左もわかない自分に無条件にチリの人は良くして下さりました。今でもチリの方々とは、スカイプで連絡をとりあっています。

『NARANJA』は、単なるスペイン語の個人レッスンの場ではなく、言語を学ぶことを通じて国際的に活躍できる人材育成の育成を目指しています。言語がないと、深いコミュニケーションは成立しません。言葉が話せてもその場に応じた使い方を知らないと意味を成さないですし、現地に行かないとわからないことがたくさんあります。そこで、私の経験を少しでもお世話になった別府市に還元する意味でも、語学を通して海外で活躍できる”環境”を提供できればと思い『NARANJA』を立ち上げました。

 

 

【次ページ】南米と日本のエッセンスを融合したチームを作りたい

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  • date:2014/04/10 18:00