「ウルグアイサッカーに精通する男」松原良香

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11
07月
2014

エスタディオ・センテナリオ ロッカールームにて
(写真:エスタディオ・センテナリオ ロッカールームにて

Jリーグ開幕を翌年に控え、日本に空前のサッカーバブルの波が押し寄せつつあった1993年。松原良香は人知れず南米サッカーの古豪国である、ウルグアイの名門CAペニャロールにいた。

国外でプレーをする選手が増加した現在と比べると、当時は海外移籍の意味合いも、重みも異なっていた。ウルグアイからキャリアをスタートし、13年間の現役生活で4ヶ国、計12のチームを渡り歩いた松原の経歴は、20年が経過した現在も異彩を放っている。

松原は1974年に、サッカー王国静岡県に生まれる。幼い頃からサッカーを始め、世代別の代表に選出されていた松原は、高校卒業を前にヤンマー(現・セレッソ大阪)など数チームからオファーを受ける。進学か、JFLか。迷った末、阪南大学に進学するが、入学を前に退学。

所属チームを失い、手持ち無沙汰な日々を過ごしていた松原に、再びサッカーと向きあう機会を与えたのは後にブラジル代表を破り「マイアミの奇跡」と呼ばれた、アトランタ五輪で日本代表コーチとして帯同する山本昌邦だった。

「山本さんにはジュニアユース代表時代から、よく面倒を見てもらっていました。そんな山本さんから電話をもらい『君達の世代は海外に出て行く必要がある。良香、海外に挑戦してみる気はないか』と。私自身、兄がアルゼンチンのCAティグレでプロ選手としてプレーしていたこと、親戚がブエノスアイレスの日本人会の会長をしていたので、元々海外に興味があり、プレーしてみたいという思いがあったんです。もっとも、始めてウルグアイという国を聞いた時は知識も情報もなく、一体どこにあるの?という状態でしたが。笑」

真冬にホットシャワーも満足に使えない、4畳半の安ホテルでの生活。深夜まで鳴り響くキャバレーの騒音。決して良いとは言えない治安。
ウルグアイの環境は19歳の若者にとって始めての経験の連続であったが、選手としての屋台骨を築くための気づきも多かった。

「グランドは芝も剥げていてボコボコで、雨が降れば水が抜けない。とてもじゃないが、天然芝と言えるシロモノではなかったですね。ボールの数も限られていて、人数分には全然足りない。リベルタ・ドーレスで5回も優勝するようなチームが、こんな環境で練習をしているのか、と衝撃的でした。それにミスをしても誰1人、他人や、環境のせいにしない。だから、選手としても、人間としても個性があり、魅力的に映りました。自分の足に家族の生活が掛かっている選手達を見て、ハングリー精神とはこういうことを言うのだな、と最初に在籍したクラブで学べたのは大きかったです」

 

 【次ページ】松原の考えを大きく変えた環境とは

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  • date:2014/07/11 18:00