『裏方列伝 元セレッソ大阪スタッフ 塩谷瑛利』

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27
06月
2016

J-Green堺 塩谷様
(写真:J-Green堺 塩谷さん)

チームは選手・監督・コーチだけでは成り立たない。陽は当たらないが、裏方で汗を流す人が必ずいる。ゴールが決まると一緒に拳を突き上げ、価値ある勝利に涙を流す。間違いなく彼らはチームの一員なのである。

新企画は、そんな影に隠れた裏方の人物に、インタビュー形式でスポットを当てる『裏方列伝』。記念すべき第1回は、昨年までセレッソ大阪にてホペイロをしていた塩谷瑛利さん。

現在はJ-Green堺のスタッフとして、サッカー界に関わり続けている。

-よろしくお願いします。記念すべき新企画の第1回です
塩谷:よろしくお願いいたします。僕なんかが1発目で大丈夫でしょうか?

 

‐もちろんです。まず経歴を教えて下さい
塩谷:中学時代は大阪の白鷺中学で、高校時代は松原高校でプレーしました。高校を卒業後、1年間の浪人生活を経て武蔵丘短期大学というスポーツ系の大学に進学しました。本当は日本体育大学に行きたかったのですが合格することができずに、もう1年浪人しようと考えました。ただ親の反対もあり予備校の先生に相談をしました。その時に一旦武蔵野短期大学に入って、2年後に編入する方法もあると教えてもらい、とりあえず入学しました。そして予定通り、3年生からは日体大に編入しました。

 

‐大学ではサッカーを続けましたか?
塩谷:大学ではしていません。東京で一人暮らしになり、親からは家賃しかもらっていなかったので、生活をするためにずっと飲食店でアルバイトをしていました。たまにフットサルをするぐらいでした。

 

‐サッカー界に戻ることになった転機は何でしょうか?
塩谷:自分は昔からサッカーの指導者を目指していました。そのために日体大に行ったのです。日体大に編入した時に教員免許を取るつもりはなかったのですが、途中からやっぱり取ろうと考えました。すると3月卒業では間に合わなく9月卒業になりました。ちょうどその頃、元日本代表の北澤豪さんが世田谷でサッカー教室を始めて、学生のボランティアを探しており、いい機会だからやってみようと思い参加しました。

 

‐大阪に帰るきっかけは何でしたか?
塩谷:元々セレッソ大阪が大好きで、ホームゲームではゴール裏でサポーターとして叫び続けていました。そのセレッソで仕事がしたいと昔から考えていて「募集していませんか?」という電話をしました。でもタイミングが合わず募集がその時はありませんでした。このままボランティアで北沢さんの所でずっとは無理だと考えて、あてはありませんが大阪に帰ることを決意いたしました。

 

‐そして念願のセレッソでの仕事に就いたのですか?
塩谷:大阪から帰って1週間後に、セレッソのスクールコーチの募集がたまたまあって、すぐに連絡しました。「いつも問い合わせてくれておられる方ですよね?」ということで会っていただく機会を作っていただき、そのままスクールコーチに就かせていただきました。僕の電話を取り続けていたのが、内貴さんという方です。2016年4月までJ-Green堺で僕の上司として一緒に働いていました。今でも「ずっと電話してきてたよな~」と笑われています。

 

‐ホペイロになったきっかけは?
塩谷:セレッソが初めてACL(アジア・チャンピオンズリーグ)に出た2011年、トップチームにマネージャーが2人いましたが、ACLに出るから一人増やしたいという意向がありました。当時トップチームの強化部長を務めていた梶野智さんが、スクールのトップの宮本功さんに相談した所、僕の名前を出していただいてこれも経験だと考え、マネージャー業に就きました。

 

‐難しさを感じることはありましたか?
塩谷:難しさばかりでした。最初の頃は指導者をしたいという気持ちが捨てきれずにいました。やることが全然分からないので、覚えながらやっていくことに必死でした。選手一人ひとりこだわりもあり、覚えることは多かったですが、体が自然に覚えていきました。休みがなかったのは大変でしたね。特にキャンプの準備をして、キャンプを終えたらすぐに開幕を迎えるので、あの時期は1~2ヶ月ほぼ休みがないので大変でした。でもセレッソが大好きだったので、精神的に疲労はしませんでした。

 

-指導者になりたいという気持ちを捨て、マネージャーで上を目指す気持ちを持ち始めたのはいつ頃ですか?
塩谷:1年目が終わったぐらいですね。1年間マネージャーとして過ごしましたが、チームは翌年のACLへの出場権を逃していました。その時にスクールコーチに戻ることを打診されました。その時に「もっとマネージャーの上を目指したい」という気持ちが出てきていて、「やりたいです」と上司に伝えました。それと同時にホペイロとは何かということを世間にもっと広めたいという気持ちも出てきました。

 

‐やりたいことができるようになったのはいつからですか?
塩谷:2年間は先輩方のサポートという感じでした。そこからは自由にやっていけるようになりました。最初の2年間で仕事を覚えながら、「自分だったらこうする」とか考えていて、自由になった時に色々と変えていきました。

 

‐選手との秘話などはありますか?
塩谷:僕がマネージャーに就いた13年以降にセレッソから海外に行った選手にはスパイクにサインをもらって飾っています。ショーケースを買って家に飾っていますが、その中にはディエゴ・フォルランのスパイクもあります。ドイツに行った山口蛍はこだわりが強かったです。短いソックスが良いというから用意してあげたのに、やっぱり長いのがいいとか、かまってちゃんな部分はありました(笑)。かわいいですよね。

 

‐選手と同じぐらいの立場で戦っていましたか?
塩谷:チームの一員という気持ちが大きかったです。負けたら悔しいですし、勝ったら嬉しい。昨年はこのままだとJ1に上がれないから「自分たちにできることはないのか」などを考えていました。まさか自分が契約満了になるとは思ってもいませんでしたが、チームの成績によって自分たちの年俸も決まるので一蓮托生です。

 

-チーム内で選手間同士の問題もあったのですか?
塩谷:人間なのでもちろん一部そういうこともありますが、酒本選手が円滑油となっていました。他のクラブと比べたら仲が良いとは思います。

 

‐マネージャー業の中で良かった点は?
塩谷:普段経験のできないことが経験できたことは良かったです。優勝争い、残留争い、昨年はプレーオフも戦うことができました。それを身近に経験できる人は滅多にいないので。もちろんプレーするのは選手ですが、あの何万人も入るスタジアムの中に身を置けることは嬉しいことですし、幸せだと感じました。毎試合鳥肌が立っていました。それまではスタジアムの観客席で観る側だったのに、スタッフになれたことは本当に良かったです。

 

‐他によかったことはありますか?
塩谷:アジアチャンピオンズリーグで海外経験を積めたことは良かったです。日本とは環境が全然違いました。

 

‐海外遠征は大変なことが多そうですね
塩谷:Jリーグだったらトラックで運ぶ荷物が、海外なので飛行機で運ぶことになる。そうなったら全部スーツケースに荷物を詰めなければいけないですし、重量も決まっている。また持って行けないモノも出てきますし、向こうで借りなければいけないものもありました。Jリーグを戦って、翌日には荷物を送らなければ行けない日もあり、本当に大変でしたね。試合から帰ってきて、朝までクラブハウスで荷物を詰めていたこともありました。

 

-海外のクラブのホペイロと日本のホペイロの違いは?
塩谷:マンチェスター・ユナイテッドと試合をした際にロッカールームを見せて頂きました。中を見ると意外と殺風景で、ホペイロもおじいちゃんがやっていました。でも経験は豊富な方でした。アーセナルは親子でホペイロをしていますし、日本との違いは多いです。韓国のクラブが日本に来た時は、選手が荷物を運んでいました。

 

-ホペイロとしてこだわっていた部分はありますか?
塩谷:ガムの種類の多さですかね(笑)?試合中に選手が噛んでいるガムは全て用意していました。最初は何種類かでしたが、そこからキャラメルを入れたり、味が長続きするガムや、ハイチュウ、はちみつの飴など多くのものを用意していました。他のクラブの選手たちも種類の多さにびっくりしていました。

 

-まだまだホペイロという仕事は理解されにくいですか?
塩谷:正直理解されていない部分はあります。契約満了になった際に、日本のホペイロの第一人者である名古屋グランパスの松浦さんに連絡したらびっくりされました。

 

-J-Green堺に転職されたきっかけは?
塩谷:契約満了になった時に色々な方々に連絡をとりました。以前、京都サンガF.C.でマネージャーをしていた福永さんに連絡したところ、J-Green堺では、マネージャー経験が生かせるということを教えてもらい、転職するなら経験を生かせる場所が良いと考え、この職場の面接を受けました。

 

‐ホペイロでの経験が今の仕事に生かせている?
塩谷:日本サッカー協会の案件から一般の方が参加するフットサルの大会など幅広く受け入れをしています。今まで現場レベルでやってきた事が逆の目線で考えれるので、これまでの経験を生かせていると思っています。やっぱり現場が大事な仕事なのでよくピッチに足を運んでいますが、外に出ると元選手や指導者、メーカーの方など色々な方とお会いしますし、中にはわざわざ訪ねて来て下さる方もいるのでそれは本当に嬉しいですね。今までは1つのチームを支える仕事でしたが今はもっと広く、日本のサッカー界を支える仕事だと思っています。まさにSAKAI(堺)からSEKAI(世界)へですね。J-Green堺は世界一の施設を目指しています。その手助けができればと思います。Jリーグクラブがキャンプを行ったり、最近では海外のクラブもJ-Green堺でキャンプを行っています。自分が海外に行って苦労したことや、Jクラブのマネージャーをしていて、キャンプ中に大変だと感じたことを手助けして、J-Green堺を使いやすい施設にしていこうと考えています。

 

‐塩谷さんにとってのサッカーとは?
塩谷:サッカーが無ければ何をしてたか分からないですし、こんなに多くの人とも出会ってないし繋がっていなかったので感謝しています。だから、簡単に一言では言い表せないですね。

 

-ありがとうございました。
塩谷:ありがとうございました。

 

長居のゴール裏で声援を送り続けた少年は、桜色への想いが焦がれ、夢に邁進した。
そして少年はチームの一員となった。選手だけではない。
そんな彼も間違いなく『桜の戦士』だったのだ。桜の戦士は、戦場を変え次は世界を目指す!

 

◆J-GREEN堺とは
2010年堺市の堺浜に開設された日本最大級のサッカーフットサル施設で、サッカー日本代表やJリーグクラブも利用しています。
サッカーフィールド16面フットサルフィールド8面を有しています。
正式名称 堺市立サッカーナショナルトレーニングセンター
公式サイト:http://jgreen-sakai.jp/ 

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  • date:2016/06/27 9:00