「逆輸入フットボーラーの先駆者」澤昌克

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

26
06月
2014

南米で奮闘する日本人選手達に「今後どういったキャリアを築きたいか?」という質問をぶつけると、高確率で返ってきたのが「澤選手のようになれれば・・・」という答えだった。澤昌克のような選手を目指す。それはつまり、留学生から這い上がり、南米でプロ選手としての実績を積み”逆輸入”フットボーラーとしてJリーグでプレーをすることを意味する。澤がペルーの地で残した実績は、まばゆいばかりの輝きを放っている。日本人選手が3人しか成し得ていないコパ・リベルタドーレス本戦に出場を果たし、ブラジルサッカーの聖地マラカナン・スタジアムのピッチにも立った。2007年にはペルーリーグ最優秀外国人選手賞に選出され、ワールドカップ予選を戦うペルー代表チームからは代表招集の打診を受けた。

そんな澤の選手生活は慢性的に怪我に悩まされ、南米で経験した人種差別との戦いであり、決して順風満帆と言えるものではなかった。

澤は千葉県の中央学院高校時代、国体の県選抜選手に選ばれるがJリーグからのオファーはなく、仙台大学にその年唯一のスポーツ特待生として進学予定だった。ただ澤の頭の中には幼少期にテレビ越しに見た、ワールドカップでのマラドーナの活躍が、進学を目前にしても記憶の片隅に残り続けていた。

【PR】大迫半端ないTシャツ販売中

「小学校でプロを意識してから、ずっと両親に南米に行きたいと言い続けていたんです。いつか南米でやりたいな、と。サッカーを続けていくうちに、、その想いは年々強まりました。若いうちにしかチャレンジできないので、とりあえず大学を休学して、1年間だけアルゼンチンに行ってみようと」

澤が留学生として練習に参加したのは、南米有数の名門CAリーベル・プレート。もともと育成型クラブとして、数々の名選手を輩出した同クラブだが、当時のリーベルは少し上の世代にはアイマール、サビオラ、ダレッサンドロ、ガジャルド、オルテガなどが在籍しており、澤の下の年代にはマスチェラーノ、イグアイン、ファルカオ、カリッソら後の欧州の最前線で活躍するスター選手の予備軍であった。

「当時は5軍でプレーしていたんですが、紅白戦すら出せてもらえない状況でした。今から考えてみれば、お金にならない日本人選手を育成するメリットはクラブ側にないので、当然なんですが。何度も心が折れそうになりましたが、それでも何とか腐らずに練習を続け、代理人を通してコミニケーションをとるのではなく、スペイン語の取得に励みました。そんな生活を3ヶ月ほど続けているうちに、3軍の監督が目をかけてくれるようになり、上のカテゴリーで練習できるようになりました。その時に選手としての実力はもちろんですが、チームのスタッフにいかに好かれるかという人間力の重要性を理解しました。この経験は、後のサッカー人生でも本当に役立ちましたね」

1年が過ぎて日本に帰る日が来る時、リーベルのユースの総監督からユースチームでの契約の話しが舞い込んできた。澤は迷ったあげく、アルゼンチンに残ることを選択し、2002年1月に正式にリーベル・プレートとの契約を結んだ。しかし、2003年12月に首の骨折という選手生命を脅かす大怪我にあい、1年以上プレーができない状態に追い込まれた。

「当時の代理人に言われたのが、このままリーベルに残ってもトップチームの試合に出るのは難しいという話しでした。そこでペルー移籍の話しを聞いて、当初はペルーリーグのレベルに懐疑的でしたがスポルティング・クリスタルがコパ・リベルタドーレスに出場する露出の多いクラブだったことと、とにかく出場機会を求めて移籍を決断しました」

契約内容は勝利給のみの厳しいものだったが、ことサッカーのレベルに関しては澤は「これでペルーで1番、2番のクラブなら自分も通用する」という手応えを感じていた。

その後、得点とアシストを重ねペルーリーグで着実にステップアップをしていき、デポルティボ・ムニンシパル在籍時にはペルー中のクラブからオファーを受けるまでになり、アメリカのメジャーリーグからのオファーも届いた。

 

【次ページ】0円プレーヤーから月給80万円プレーヤーへ

1 2

関連記事

「海外日本人選手」カテゴリの最新記事

こんな話題も

  • date:2014/06/26 19:17